暮らし記

ふたり暮らしの記録。

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自分の心のモニタリング

高校時代の現代文の先生で、夏目漱石の「こころ」を毎年読み返している、というおじさん先生がいました。それも、その年ごとに、文庫本で新しく買って読んでいたそうです。

その先生が言うには、心に「ぐっ」と刺さった箇所、単純に「おっ」と興味を持った箇所、反対に「えっ」と批判したくなる箇所を、それぞれ色分けして線を引きながら読むんだそうです。そうすると、そのときの自分の心の状況が、「こころ」という小説に映し出される。古い文庫本を読み返すと、そのときの自分がどうだったか、それと比べて今の自分がどう変わっているのか、といったことがわかって、面白いんだそうです。

……なんていう話を、もう10年近く前の話になるんですが、はっきりと覚えています。


自分の体は鏡に映し出された姿を見ることでしか確認できないように、自分の心だってそれを映し出す何かがあってこそ確認のしようがある。わかっているようでいてわからないことばかりのもやもやした不思議なものがこころですよね。

もやっとしているのだから形にすればいい。かといって、自分一人だとそれはそれは大変だ。であれば、何かすでにかたちあるものにぶつければいい。ぶつければ、何かしら返ってくる。返ってきたものを手掛かりにその形を見つけることができるはず。

営業をやっていてもそうだなーと思います。仕事の話に置き換えてばっかり考えてしまうのは嫌だけど。お客さんに「何かお困りごとはないですか」って言ったところで、答えなんて返ってこないもの。困っていないことがない、なんてありえないんだけど、そんな漠然と聞かれたところで、浮かばない。だから、こちらで考えたうえで「ここ、困っていませんか? こういう理由で考えてみたんですけど」って、何か形にした状態でぶつけてみると、たとえそれが外れていたとしても、それを足掛かりに話が前に進むことがあります。

うん、それと同じ。自分のこころっていう漠然としたものは、それだけを掴もうとしてもとうてい掴めるものじゃない。もやもや。何かにぶつけてみると、それが良いヒントになります。

あの先生の場合は、それが夏目漱石の「こころ」でした。それを毎年、定点観測のように続けることで、心の変化を見ることができる。逆に言えば、「こころ」は、それだけ長く読み続けることのできる深みがある小説なんでしょうね。僕の場合は何だろう。同じ本を繰り返し読み返す…ということは、したことがありませんでした。高校生のころからずーっと書いてる日記は、そうかもしれません。昔好きだった音楽を聞いて、懐かしいなあ、こんなフレーズあったっけ、なんて思うのも、これに近いのでしょうか。

ただ漫然と時間だけが過ぎて行って、何も変わっていない自分を自覚するのが怖いだけなのかもしれません。だから、自分自身が少しでも変化していること、成長していること、前に進んでいることを目に見てわかるかたちで認識したくて、こうやってブログを書いたり日記を書いたりしているのかもしれません。